豊見城グスク

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豊見城グスク

データ

グスク名 豊見城グスク、豊見グスク
読み とみぐすくぐすく、とみぐすく
別名 ティミグスク
所在地 豊見城市豊見城
現況 豊見城城址公園(閉園)
築造年代 14世紀末頃
築造者 汪応祖?
主な城主 汪応祖、他魯毎など
種別 居城
構造物

記録

初回探訪年月日 2009/4/5
最終探訪年月日 2014/11/18
満足度(A-G) 進入出来ないため詳細は分かりませんが、遺構は残っていないはずです。
過去の記述
所在地 豊見城市豊見城
分類 居城
築造年代 十四世紀末頃
築造者 汪応祖
主な城主 汪応祖、他魯毎など

豊見城集落の北東、漫湖の南岸に築かれたグスク。
汪英紫の次男、汪応祖によって築かれたとされており、1403年南山王承察度没(亡命?)後に
汪応祖が王位に就くと息子の他魯毎が豊見城按司となります。
1414年、逹勃期により汪応祖が弑されると、他魯毎は南山緒按司とともにこれを破り、自ら南山王に即位します。
その時豊見城按司を置いたと考えられますが、詳細は分かっていません。
1429年に尚巴志によって攻め落とされたと考えられますが、伝承では南山滅亡後も抵抗を続けるも尚巴志の計略により落とされたとしています。

概要

豊見城グスクは豊見城集落北東の丘陵上、標高約54mの場所に築かれたグスクです。
漫湖の南岸に位置し以前は豊見城城址公園でしたが、2003年に休園したため現在は進入出来ない状態です。

歴史、伝承

汪英紫の次男で豊見城按司の汪応祖によって築かれたとされています。
汪応祖は明国の南京に留学した経験があり、その時に見た龍舟を造らせてグスク城下で競わせたのがハーリーの始まりと云われているようです。
1403年、山南王承察度没(亡命?)後に汪応祖が王位に就くと息子の他魯毎が豊見城按司となります。
1414年、汪応祖が兄である逹勃期により弑されると、他魯毎は南山緒按司とともにこれを破り、南山グスクに入ると自ら山南王に即位します。
その際に他魯毎は弟を豊見城按司として置いたと云われているようです。
1429年、尚巴志によって攻め落とされたと考えられますが、伝承では山南侵攻の手始めに落とされた、あるいは山南滅亡後も抵抗を続けたとも云われていますが、尚巴志の計略により落とされたとしています。
戦前までは野面積みの城壁やアーチ門が残されていたそうですが、戦災や戦後の採石で破壊されて遺構は残っていません。
それでも豊見城城址公園として整備されていましたが、2003年に休園したため現在は進入も出来ない状態で現在に至っています。

落城と石火矢橋の伝承

尚巴志はグスクを攻める前に女性の間者を送ったと云われています。
間者は行商人として何度かグスクに潜入し、建物の位置などを把握し報告し、やがて豊見城按司と懇意になります。
按司は「また来て欲しい」と言いますが、間者は「城下は橋が少なく、不便でなかなか来れない」というような事を言ったため、按司はグスクの東に橋を掛けさせます。
やがて第一尚氏の軍勢はこの橋を渡って攻め入り、報告に元にグスク内の建物を焼き払い、グスクは落城したのだそうです。
この事からこの橋は石火矢橋と呼ばれるようになったのだそうです。

探訪記

2009/4/5

北から見た豊見城グスク 北から見たグスク遠景
饒波川と国場川が合流する河口付近です。
これらの河川などに囲まれ、要害性が高いと言えそうです。
とよみ大橋付近から見た豊見城グスク 北側、とよみ大橋付近から見たグスク遠景。
国場川の向かいは湿地の漫湖が広がっています。
豊見城ハーリー歌の碑 とよみ大橋付近に建てられた豊見城ハーリー歌の碑。
爬竜船競漕(ハーリー)を最初に開いたのは汪応祖とされています。

2014/11/18

東側から見たグスク。
東の石火矢橋からグスク方面を見ます。

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