糸満市南部の集中地について

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2009/7/24~
糸満市南部のグスク集中地について考えて見ます。
糸満市南部にはグスクが集中している地域が複数存在します。

糸洲方面のグスク

まず糸洲方面 こちら側は糸洲グスクを除いて集落、御嶽だったように思えます。
あくまで個人的な感想ですが・・・

喜屋武方面のグスク

そして別に喜屋武付近での集中地があります。
  • 山城グスク(城砦グスク?上里グスクの出城と言われています)
  • 上里グスク(連郭式の城砦グスク)
  • 佐慶グスク(城壁などを備えた城砦グスク)
  • 束辺名グスク(上里グスク南西。當眞嗣一氏が記す所によると城砦型グスクであった模様です[1]「沖縄県立博物館紀要第24号:沖縄南部旧喜屋武間切りのグスク群について(一)」
  • 當間(当間)グスク(城壁あり、資料によれば単郭式)
地形図にグスクを置いた物。
地勢を分かりやすくした物。
こちらは殆どが城砦型のグスクでこれだけ密集していると他のグスクと連携する事を考えて築かれたように見えます。
さらに地勢を見ると、現在の上里集落を三方向で囲んでいる稜線上に築かれている事が分かります。また現在上里と束辺名の両集落を最短で行き来している切通道は当時は無く、少なくとも大正期の頃は束辺名グスク脇のメーガー道と呼ばれる古道[2]「沖縄県立博物館紀要第24号:沖縄南部旧喜屋武間切りのグスク群について(一)」が用いられていた様です。
束辺名グスク脇の古道跡を北側から見たもの。

そして稜線から南下した所にグスクを築ける丘陵があれば、そこに中心的なグスクを築けたのでしょうが、稜線で蓋をされた内側はほぼ平坦な地勢となっています。
その為、稜線上の一角に中心的な上里グスクを築き、その反対側の斜面に山城グスク、東側の稜線上に佐慶グスクを築き出城にした物と思われます。
その事から考えると、地域の中心として上里グスク、出城として山城、佐慶グスク、西側の當間、束辺名グスクは街道を抑える目的としてそれぞれ築かれたと考えられます。

喜屋武方面になぜ築かれたか

南山グスクの南には出城とされるグスクがいくつも存在します。
  • 国吉グスク
  • 真壁グスク
  • 米須グスク
伝承ではこれらは南山グスクの出城とされています。
それを信じるならば、南山グスクの南にも敵対する勢力が存在したことになります。
喜屋武方面のグスク=南山の敵対勢力と言えると考えます。
それらに対する備えとしてこれらの「出城」が築かれたと言う事であればそれなりに納得が行きます。

脚注

脚注

1, 2「沖縄県立博物館紀要第24号:沖縄南部旧喜屋武間切りのグスク群について(一)」

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