名護グスク
データ
グスク名 | 名護グスク |
読み | なんぐすく |
別名 | – |
所在地 | 名護市名護 |
現況 | 名護城公園 |
築造年代 | 不詳 |
築造者 | 名護按司 |
主な城主 | 名護按司 |
種別 | 居城 |
構造物 | 拝所、郭、堀切、標柱 |
記録
初回探訪年月日 | 2007/1/15 | |
最終探訪年月日 | – | |
満足度(A-G) | B | 石積み遺構は殆ど見受けられませんが、堀切などの遺構を残しつつ公園として整備されています。 |
過去の記述
所在地 | 名護市名護 |
分類 | 居城 |
築造年代 | 不詳 |
築造者 | 名護按司 |
主な城主 | 名護按司 |
名護城公園として整備されています。
中北山の今帰仁按司の次男が名護按司として築いたと言われています。
代々の名護按司の居城だったようですが
今帰仁按司を滅ぼした羽地按司に従属し、北山王の支配下に置かれたようです。
概要
名護グスクは名護市街地の東側、標高103mの丘陵上に築かれたグスクです。
現在は名護城公園として整備され、寒緋桜の名所として知られています。
歴史
築かれた年代は定かではありませんが、
中北山の今帰仁按司の次男が築き名護按司となったことが始まりと云われています[1]沖縄のグスクめぐり[2]「沖縄戦国時代の謎」P150 には今帰仁按司の子の一人とあります。。
その後代々名護按司の居城として、周辺に勢力を誇ったそうです。
しかし今帰仁按司を滅ぼした怕尼芝に従属する事になり[3]沖縄戦国時代の謎 P150[4]「沖縄のグスクめぐり」では怕尼芝に滅ぼされたとされています。、北山王の支配下に置かれたようです。
1420年頃、名護按司は第一尚氏に通じ、北山討伐の軍にも参加したと云います[5]沖縄戦国時代の謎 P150[6]グスク文化を考える P164。
名護按司はその後も続いた様ですが、第二尚氏尚真王の中央集権政策によって首里へ移され廃城になったそうです。
またグスクから麓へ通じる斜面に集落があったとされています[7]グスク文化を考える P164。
ギャラリー
名護城跡公園の階段 グスクは桜の名所として知られています。 | |
グスクへ向かう道。 グスクへ登る道は幾つかありますが、 ここがかつての正面に当たるかも知れません。 | |
グスク城門跡。 ここを抜けるとグスク内です。 | |
グスク内の広場。 四阿にみえるのは神アサギのようです。 このグスクは石を使わず、斜面を削ることで守りを固めたのだそうです。 | |
神アサギの東にある拝所。 この背後は林です。 | |
グスクの東へ向かいます。 明確な道が無く分かりにくいです。 | |
グスクの東側にある堀切。 斜面がほぼ直角です。 |