八重瀬グスク

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八重瀬グスク

データ

グスク名八重瀬グスク
読みやえせぐすく
別名富盛グスク、富盛之城(とぅむいんじょう)
所在地八重瀬町富盛
現況八重瀬公園
築造年代不詳
築造者不詳
主な城主八重瀬按司?
種別居城
構造物城壁、拝所、井泉、郭、按司墓、石積、標柱、説明板

記録

初回探訪年月日2005/7/12
最終探訪年月日2020/11/23
満足度(A-G)C公園となっていますが、ある程度遺構は残っている印象です。
過去の記述
所在地八重瀬町富盛
分類居城
築造年代不詳
築造者不詳
主な城主八重瀬按司

八重瀬岳の中腹にあるグスク。
現在は公園になっていますが、それでも本殿跡、蔵当、物見台といった遺構は確認できます。また公園のグランドの南側にも拝所があります。
城主の八重瀬按司は、大里グスクを攻めとり「下世の主」と名乗った汪英紫と言われています。

概要

八重瀬グスクは富盛集落西、八重瀬岳(標高163m)中腹の標高105m-125mの場所にあるグスクです。
連郭式のグスクで、蔵当(くらんとぅ)と本殿跡と呼ばれる二つの郭と物見跡とされるグスク最高所からなっています。
現在は八重瀬公園として整備され、遺構は手が加えられながらも残されています。

歴史、伝承

このグスクの詳細な歴史は分かっていません。
築かれた時期については11世紀後期とする向きもあるようです。伝承によれば集落の物見として勢理グスクを用いていたものの、集落が拡大してきたためより見通しが利いて堅牢な城が必要になったため住民によって築かれたと云われている様です[1]富盛字誌 P50
その後は八重瀬按司の居城であったと云われています。
島添大里グスクを攻め取り「下世之主」と名乗った汪英紫(えーじ)が八重瀬の当て字と見られており[2]沖縄の拝所めぐり300 P103、八重瀬按司は汪英紫を指しているとも見られています[3]沖縄のグスクめぐり
汪英紫が大里グスクへ移った後は一族などを後継の城主にしたと思われますが、詳細は伝わっていません。ただ汪英紫の長男である達勃期が城主になったのでは無いかとする見方もあるようです[4]新琉球王統史 2 P82が、他魯毎王の弟である南風原按司(守忠?)が城主についたとする伝承がある様です[5]富盛字誌 P57
山南が滅亡した後は尚巴志の四男が配され八重瀬按司となったとされている事から[6]琉球王国の真実 P133[7]沖縄の拝所めぐり300 P103第一尚氏王統の時代までは用いられたと思われます。

感想

グスク巡りを初めようと思って初日に訪れたグスクです。
本島南部のグスクとしては比較的高い位置にあり、地形は堅牢な上にグスク内にはグスクガーと呼ばれる井泉も水場として取り込んでいます。
ただ沖縄本島では内陸と言っても位置から交易を行えないため、汪英紫は海に面した拠点を求めて大里へ進出したという見方もあるようです。
グスクめぐりを始める前から何度も見た遺構ですが、石積み遺構はあっても微妙な高さだったりとグスクとしての雰囲気はあるのですが、残っている遺構は良好とは言えないと思っています。

ギャラリー

2006/2/26

グスク崖下グスクの崖下には古墓や拝所などがあります。
本殿跡の火の神本殿跡にある火の神。
蔵当本殿跡からみた蔵当。周囲は石積みで囲まれ、
少し高くなっています。この後方は物見台、
右手側を下るとカーがあります。
拝井泉跡グスク内カー。
物見台物見台。今は展望台として利用されています。

2020/11/13

本殿跡西側。
本殿跡南側。
本殿側から見た蔵当跡。
蔵当跡内。
グスク北東部にある物見跡。
展望台になっている物見跡から北東方面を見ます。

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脚注

脚注

1富盛字誌 P50
2, 7沖縄の拝所めぐり300 P103
3沖縄のグスクめぐり
4新琉球王統史 2 P82
5富盛字誌 P57
6琉球王国の真実 P133

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