南山グスク

南山グスク

データ

グスク名 南山グスク
読み なんざんぐすく
別名 島尻大里グスク、高嶺グスク
所在地 糸満市大里
現況 南山神社、高嶺小学校
築造年代 14世紀頃?
築造者 大里按司?
主な城主 承察度、汪応祖、他魯毎など
種別 居城
構造物 城壁、拝所、古墓、石積、石碑

記録

初回探訪年月日 2006/2/26
最終探訪年月日 2007/5/4
満足度(A-G) C 破壊、改変を受けてはいますが、遺構も部分的に残っています。
過去の記述
所在地 糸満市大里
分類 居城
築造年代 不詳
築造者 不詳
主な城主 承察度・他魯毎など

南山王国の本拠地だったといわれています。現在は一部小学校の敷地です。

概要

南山グスクは大里集落内、標高約50m比高10mほどの微高地に築かれたグスクです。
山南王の居城として知られているグスクですが、学校建設などにより破壊を受けています。

遺構について

グスクの周囲を取り巻く石積み遺構ですが、北西から北側に掛けて巡ってる野面積みの石積みは城壁遺構のようです。
しかし西から南東に掛けて巡らされた切石積みの石積みは遺構では無く、大正期に積まれた物だそうです。

歴史、伝承

グスクの詳細な築造年代は分かっていませんが、大里按司によって築かれたとされています。
何代目かの大里按司が1380年に山南王承察度として明朝に進貢している事から、この頃には勢力を確立していたと思われます。
しかし1398年に島添大里按司である汪英紫に敗れ、朝鮮へ亡命していたと見られています。(逃れたのは長子とも)
その後汪英紫が東西どちらの大里グスクを居城としていたのかはっきりしていませんが、島添大里グスクに居を置いたままでは無かったかと思われます。
1403年頃、汪英紫が没すると次男で豊見城按司だった汪応祖が跡を継いで南山グスクに入り山南王に即位したと云われています。
1413年頃、汪応祖は兄で八重瀬按司だったと見られている達勃期に弑逆されたとされています。
翌14年には汪応祖の子で豊見城グスクにいた他魯毎が達勃期を破り入城し、即位したとされてます。
1429年頃、他魯毎は第一尚氏に滅ぼされたと見られていますが、廃城になったのか第一尚氏より按司が置かれたのか定かではありません。
ですが「琉球王国の真実」では初代伊覇按司の七男を按司につけ、高嶺按司としたとしています。

感想

かつて三山の一つであった南山王国の王城と言うべきグスクです。
しかし浦添グスクや今帰仁グスクと比べて小規模だった事や大正期という早い段階で破壊、改変があったためかつての姿を偲ぶのは難しい状態です。
グスク正面を取り巻く石積みも遺構ではありませんので、グスクを散策して野面積みの城壁など僅かな遺構から偲ぶしかありません。

探訪記

2006/2/26

南山神社の鳥居 南山神社
グスク内にある南山神社の鳥居。 南山神社。
グスク内の拝所 城門の一つ
グスク内の拝所。 いくつかある城門の一つです。

2007/5/4

グスク北側に残る野面積みの城壁遺構。 北側、拝所裏手の城壁。
本来は野面の城壁が全周していたと思われます。
グスク内拝所。 城跡碑。

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