浦添グスク

浦添グスク

データ

グスク名 浦添グスク
読み うらそえぐすく
別名
所在地 浦添市仲間
現況
築造年代 13世紀頃
築造者 不詳
主な城主 舜天(伝承)・英祖・察度の各王統
第二尚氏浦添家(小禄御殿)
種別 居城
構造物 城壁、空堀、拝所、拝井、標柱、説明板

記録

初回探訪年月日 2005/8/23
最終探訪年月日 2007/5/6
満足度(A-G) C かつては城壁の痕跡を残すのみでしたが、復元が進んでいます。
過去の記述
所在地 浦添市仲間
分類 居城
築造年代 不詳
築造者 不詳
主な城主 舜天・英祖・察度の各王統
第二尚氏浦添家(小禄御殿)

舜天が王統を開いた際に居城にしたとされ、
佐敷按司・巴志が武寧王を滅ぼすまで中山の中心だったといわれています。
その後しばらく主がありませんでしたが、
第二尚氏の時代に尚真王の長男で廃嫡された尚維衡が、荒れた浦添グスクを整備して居城とします。(小禄御殿)
小禄御殿四代目の尚寧は第二尚氏七代目国王となり首里に上ります。しかしその治世に薩摩が侵攻し浦添グスクも破壊されますが、尚寧王はグスクを再建し居したといわれています。。
尚寧王が玉陵に入らなかったのは薩摩の侵攻を許したことが理由ではなく、元々首里の玉陵に入るつもりは無かったようです。
沖縄戦ではグスクは日本軍により要塞化され、米軍の攻撃を受ける事になり、城壁なども徹底的に破壊されましたが、最近は復元が進んでいます。

歴史

三山統一まで

このグスクの築造年代ははっkりしていませんが、伝承によれば1187年には舜天が浦添按司で、天孫氏を滅ぼした利勇を倒して中山王の位に就いたと云われています。
伝承の通りであれば、舜天王統が開かれる以前からグスクは用いられていた事になります。
ですがこれまでの調査の結果、グスクの始まりは13世紀末と見られているようで、英祖王の頃から用いられたと思われます。
ただ伝承上では舜天に始まり、舜天、英祖、察度と三王統10代218年に渡り中山の中心だったといわれています。
1405年、察度王統2代目の武寧王が佐敷按司である巴志に滅ぼされた事で一旦廃城となります。

第二尚氏時代

武寧王が滅ぼされた後、しばらく主がありませんでした。
しかし16世紀初頭、第二尚氏の時代に尚真王の長子でありながら廃嫡された尚維衡が、荒れた浦添グスクを整備して居城とします。(小禄御殿)
1589年、小禄御殿四代目の尚寧は第二尚氏7代目王となり首里に上ります。
1597年にはグスクと首里間の道を整備しています。
しかしその治世である1609年、島津氏が侵攻しグスクも破壊されますが、尚寧王はグスクを再建し居したといわれています。。
尚寧王が玉陵に入らなかったのは薩摩の侵攻を許したことが理由ではなく、元々首里の玉陵に入るつもりは無かったようです。
そして尚寧王が没した際に廃城になったと思われます。

その後

沖縄戦ではグスクは日本軍により要塞化され、米軍の攻撃を受ける事になり、前田高地の戦いと呼ばれる激戦が行われ、
その結果城壁なども徹底的に破壊されましたが、最近は復元が進んでいます。

浦添城の前の碑

1597年尚寧王が首里城と浦添グスクを結ぶ道を
整備した際の記念碑です。
平仮名の琉球文と漢文の両方で刻まれているものですが、
沖縄戦で破壊され、現在あるものは1999年に
復元されたものです。

探訪記

2005/8/23

残った石積み 破壊された石積み
古びた石積み。 こういった石積みはところどころに見えますが、
かつての繁栄を思い起こさせるほどでもありません。

2007/5/6

城壁跡 復元された城壁
グスク北東にある城壁の跡。 上の写真と同じ場所。
残っていた石積みがどれだけ僅かだったか分かります。
工事中? グスク内
復元された城壁の向かいにあった石積み。
これから工事でも行われるのでしょうか?
グスク内。
この一帯はミーグスク(新城)と呼ばれています。
公園として整備されていて散策はしやすいです。
ディーグガマ 殿
グスク内にある御嶽ディーグガマ。
渡嘉敷嶽とも呼ぶそうです。
殿。
堀跡 浦添城の前の碑
南西にある堀跡。それほど深いものではありません。
付近には柵列も発見されたのだそうです。
浦添城の前の碑。
カガンウカー 立ち入り禁止
堀跡付近にあるカガンウカー。 グスク東側(コーグスクと呼ばれる一帯)へ
向かうことは出来ないようです。
フェンスが張られています。

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