大里グスク

大里グスク

データ

グスク名 大里グスク
読み おおざとぐすく、うふざとぐすく
別名 島添大里グスク
所在地 南城市大里大里
現況 大里城址公園など
築造年代 12世紀末
築造者 玉村按司?
主な城主 玉村按司?、汪英紫、第一尚氏
種別 居城
構造物 城壁、拝所、郭、按司墓、石積、標柱、説明板

記録

初回探訪年月日 2005/9/1
最終探訪年月日 2007/1/20
満足度(A-G) C 遺構は残っていますが、保存状態は良くありません。
過去の記述
所在地 南城市大里大里
分類 居城
築造年代 不詳
築造者 不詳
主な城主 玉村按司・汪英紫・佐敷按司巴志

別名島添大里グスク。
三山時代に「下世の主」を名乗った汪英紫の居城だったそうです。
佐敷按司巴志がこのグスクを落とすとしばらくの間本拠地として利用していたようです。

概要

大里グスクは大里の西原集落北にある丘陵上、標高約150mの場所に築かれたグスクです。
第一尚氏が琉球統一する過程で拠点としたグスクとして知られ、
現在は大里城址公園として整備されています。
2012年に国指定史跡となっています。

歴史、感想など

築造~汪英紫

このグスクの築造者は定かでありませんが、玉村按司が築き城主であったとする伝承があるようです1)沖縄のグスクめぐり
玉村按司は八重瀬按司であった汪英紫によって滅ぼされたとも云われています。
島添大里按司となった汪英紫は「山南王淑」と称して明国と交易を行うなどして力を付け、大城按司を滅ぼして東四間切を支配し「下之世之主」を称するなど権勢を振るいます。
1398年頃、汪英紫は南山グスクの承察度を破り国外へ追いやったと見られています。
1402年頃、汪英紫が没し、息子が按司の地位を引き継いだと見られています2)「新琉球王統史 3」には屋富祖と記され、琉球王国の真実には島添大里按司とだけ記載されています。。しかし程なく佐敷按司により滅ぼされ、以後第一尚氏が琉球統一するための拠点となります。

第一尚氏~廃城

1402年頃、島添大里按司を滅ぼした佐敷按司巴志は居城を佐敷グスクから大里グスクへ移したとされています。
1406年、佐敷按司は浦添グスクの中山王武寧を滅ぼし、首里へ居を移したと云われています3)首里遷都は統一後とする説もあり定かで無いようです。
1429年、第一尚氏中山王尚巴志により琉球統一がなされます。
第一尚氏による統一後もグスクは整備され、主郭には首里城に次ぐ規模の正殿が立てられるなど離宮として用いられていたと見られています4)沖縄の名城を歩く P48。「朝鮮王朝実録」には第一尚氏最後の王である尚徳王が大里グスクへ行幸を行う様子が記されているのだそうです。
しかし尚徳王没後第一尚氏が滅ぼされると、離宮として用いられなくなり聖域のみとなったと思われます。

感想

現在は調査により4つの郭(主郭、二の郭、東郭、西郭)を備えたグスクと見られているようです5)沖縄の名城を歩く P43
しかし戦後の改変や公園化などで分かり難くなっています。
おそらくカニマン御嶽がある辺りは西郭だったと思われます。
東郭は当時存在も道もはっきりしていませんでしたので訪れていません。
実際に訪れると、規模の割には目立つ城壁遺構が無いという印象です。
第一尚氏時代は離宮として用いられていたのですから、相応の物はあったはずが様々な理由で失われたと思われます。
今後の調査や整備に期待したい所です。

探訪記

2005/9/1

入り口から入ったところにある二の郭 展望台付近の道
グスク入り口にある広場。実は二の郭だそうです。 展望台付近の道。雑草で分りづらいです。
展望台の石積み
展望台の石積み。 展望台からの景観。

2007/1/20

再訪時に二の郭跡である広場を見たもの。 主郭へ向かう道。
主郭へ向かう途中にある
ウタムトゥノーイと呼ばれる拝所。
主郭の御庭(ウナー)入り口。
御庭内。
正面にはウミチムンと呼ばれる
拝所があります。
御庭方面から展望台を見上げます。
グスク西側、
主郭と二の郭の間にあるウフウタキ。
推定西郭。
カニマン御嶽方面へ向かう道。
カニマン御嶽。 グスクからの景観。

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脚注

   [ + ]

1. 沖縄のグスクめぐり
2. 「新琉球王統史 3」には屋富祖と記され、琉球王国の真実には島添大里按司とだけ記載されています。
3. 首里遷都は統一後とする説もあり定かで無いようです。
4. 沖縄の名城を歩く P48
5. 沖縄の名城を歩く P43

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