今帰仁グスク

今帰仁グスク

データ

グスク名 今帰仁グスク
読み なきじんぐすく
別名 北山グスク
所在地 今帰仁村今泊
現況
築造年代 13世紀
築造者 不詳
主な城主 今帰仁按司、怕尼芝、珉、攀安知、護佐丸、尚忠、尚韶威など
種別 居城
構造物 城壁、城門、拝所、郭、拝井、石積、石碑、説明板

記録

初回探訪年月日 2007/1/16
最終探訪年月日
満足度(A-G) A 最大級の規模を誇るグスクで、城壁などの遺構もそれに見合った物になっています。
過去の記述
所在地 今帰仁村今泊
分類 居城
築造年代 13世紀
築造者 不詳
主な城主 今帰仁按司・怕尼芝・珉・攀安知
北山の中心的な存在であったグスク。
13世紀頃から築かれ、怕尼芝王統で現在の形になったと言われています。
石積みの城壁が続く様は壮観で
規模もグスクの中では最大級です。

概要

今帰仁グスクは今泊集落南にある丘陵上、標高約100mのハンタ原と呼ばれる場所に築かれたグスクです。
3.8ヘクタール(38000m²)1)日本城郭大系1 北海道沖縄 P248と言われる広大なグスクは、古期石灰岩による石積みで築かれ、7とも92)沖縄のグスクめぐりとも103)沖縄の名城を歩く P129ともされる郭で構成されています。
北山の中心として用いられ、歴代の今帰仁按司、北山王、北山監守が居城としました。

歴史、伝承

神話の天孫氏時代

このグスクは伝承では天孫氏によって築かれたと云われています。
アマミキヨの子である天孫氏は最初に今帰仁にグスクを築いて、代々の居城とし大いに繁栄させます。
しかし越来を経由して浦添に拠点を移したと云われています4)沖縄のグスクめぐり
天孫氏25代目の王が家臣の利勇に弑逆され滅亡すると、今帰仁グスクも廃城になったと云われています。

中北山時代

しばらく主がいなかったとされていますが、舜天王統2代目舜馬順煕王が次男を今帰仁世之主に封じたと云われています。
しかし二代目今帰仁世之主には子が無く、英祖王の次男である湧川王子を養子にしたと云われています。
なお調査の結果、グスクが築かれ始めたのは13世紀末頃と見られていますので、英祖王の子世代だと時期的に合致しそうです。
もっともこの頃のグスクは小規模の削平地を城柵で囲んだ物のようです。
湧川王子の子5)琉球王国の真実 第二章-9か孫6)沖縄のグスクめぐりの頃、北山騒動と呼ばれる内紛が勃発したと云われています。
家臣の本部大主が謀反を起こし、按司を弑逆して城主となります。
按司の遺児である千代松(丘春)は渡具知泊グスクへ落ち延び、18年経った後に本部大主を討ったのだそうです。
グスクを取り戻し今帰仁按司となった丘春ですが、1322年、従兄弟の羽地按司、怕尼芝に滅ぼされたと云われています7)琉球王国の真実 P42では怕尼芝は丘春の従兄弟である羽地按司の婿養子となっています。が、滅ぼされたのは丘春の子、仲宗根若按司とも云われています。

怕尼芝王統(後北山)時代

今帰仁按司を滅ぼした怕尼芝は上記の通り羽地按司で親川(羽地)グスクを本拠にしていたと云われています。
1322年、従兄弟である今帰仁按司かその子仲宗根若按司を滅ぼし、城主となります。
グスクの城柵が石垣の城壁に変わったのは14世紀半ばとされているので、この頃と思われます。
この後もグスクは拡張されていったようです。
1383年、怕尼芝は明に朝貢を行い、冊封を受けたとされ、この事を以って北山王に即位したとされています。
1392年に没したと云われていますが、グスクの奪取から70年程経っているため、2-3代の羽地按司が怕尼芝と記録されていると見られています。
1395年、怕尼芝の子である珉が朝貢を行っています。
1396年、珉の子である攀安知が朝貢を行っていますが、攀安知も「羽地」と見られています。
1416年8)1422年とも、攀安知は第一尚氏による中山、北山諸按司との連合に攻められたと云われています。
攀安知は難攻不落のグスクを頼りに防戦しますが、家臣である本部平原が寝返り敵兵を侵入させたため落城。攀安知は本部平原を斬った後自害したと言い伝えられています。

第一尚氏時代

北山滅亡後、尚巴志は中北山(今帰仁按司)の流れを汲むとされる読谷山按司護佐丸を城主にしたと云われています9)新琉球王統史 410)沖縄戦国時代の謎 P134
1422年、尚巴志は護佐丸に替わり、長子である尚忠を北山監守として城主に封じています。
1440年、尚忠が中山王に即位したため、この頃弟である具志頭王子が北山監守になったと云われています11)琉球王国の真実
1469年、第一尚氏が滅ぼされると、北山監守の一族は各地へ散っていたと云われています12)沖縄戦国時代の謎 P84

第二尚氏時代

尚円王の治世下では王府の大臣が交代で監守を務めていた模様ですが、尚真王の頃、王の三男である尚韶威(今帰仁王子朝典)を北山監守としたそうです。13)グスク文化を考える P229
その後は尚韶威の系統が北山監守を世襲したようです。
1609年、島津氏の侵攻によりグスクや城下は焼き討ちに遭います。その際に5代目北山監守である向克祉(今帰仁按司朝容)はグスクが島津軍に占領された翌日に没していますが、死因は定かではないようです14)琉日戦争一六〇九 P263。しかし状況が状況なだけに自然死とは考えにくく、討ち死にという見方もあるようです。
島津氏の侵攻後、焼き討ちにあった城下の集落が低地に移動したため、グスクでの生活が不便になり監守や一族も低地に屋敷を構える事になります15)グスク文化を考える P229が、1665年に最後の北山監守である向従憲(今帰仁按司朝幸)が首里への引き上げを命ぜられ北山監守は廃止。グスクは廃城となりました。

感想

先にも書きましたが、最大級のグスクです。
古期石灰岩で築かれた城壁は他のグスクと異なった趣があり、長大で曲線を描く様は非常に見応えがあります。

探訪記

グスクの大手門である平郎門。 平郎門左手側に突き出た城壁。
グスクの大手門である平郎門。 平郎門左手側に突き出た城壁。
内側から見た平郎門。 平郎門東側に登ったところ。
内側から見た平郎門。
両側の空間は兵が入る場所でしょうか。
平郎門東側に登ったところ。
当然全て石です。
大隅 平郎門からの参道沿いの石積み。
大隅(うーしみ)
平郎門より入って左手にある郭。
平郎門からの参道沿いの石積み。
グスク旧道跡。 旧道右手に見える巨大な石積み。
グスク旧道跡。
かつては石が敷かれていたようです。
旧道右手に見える巨大な石積み。
参道からも良く見えます。
旧道跡の北側。 大庭から平郎門付近を見下ろします。
旧道跡の北側。
この辺りは遺構が良く残っています
ここを登ると大庭(ウミヤー)です。
大庭から平郎門付近を見下ろします。
大庭の北部「北殿跡」にある石碑。 大庭の南部「南殿跡」にある空御カー(カラウカー)。
大庭の北部「北殿跡」にある石碑。 大庭の南部「南殿跡」にある
空御カー(カラウカー)。
御内原(ウーチバル) 御内原南側を見ます。
御内原(ウーチバル)
女官部屋があったと言われ
周囲は拝所が点在しています。
御内原南側を見ます。
御内原から大隅を見下ろします。 御内原から主郭へ向かう道。
御内原から大隅を見下ろします。
城壁と海が同時に見渡せます。
御内原から主郭へ向かう道。
主郭の建物跡。 火の神の祠。
主郭の建物跡。
基礎や礎石などが見えます。
火の神の祠。
右手には北山監守来歴碑記が立ています
主郭から御内原方面を見ます。 主郭の城壁
主郭から御内原方面を見ます。 主郭の城壁
下に見えるのは志慶真門郭。
志慶真門郭への門 志慶真門郭へ降りる道
志慶真門郭への門。
門は補強されています。
志慶真門郭へ降りる道。
志慶真門郭 志慶真門郭の城壁
志慶真門郭。
右手に見えるのが裏門にあたる志慶真門です。
志慶真門郭の城壁。
志慶真門郭から主郭方面を見ます。 杭が打たれているのは建物跡のようです
志慶真門郭から主郭方面を見ます。 志慶真門郭北側を見ます。
杭が打たれているのは建物跡のようです。

グスク一覧 グスクみちTOP

脚注

   [ + ]

1. 日本城郭大系1 北海道沖縄 P248
2, 4, 6. 沖縄のグスクめぐり
3. 沖縄の名城を歩く P129
5. 琉球王国の真実 第二章-9
7. 琉球王国の真実 P42では怕尼芝は丘春の従兄弟である羽地按司の婿養子となっています。
8. 1422年とも
9. 新琉球王統史 4
10. 沖縄戦国時代の謎 P134
11. 琉球王国の真実
12. 沖縄戦国時代の謎 P84
13, 15. グスク文化を考える P229
14. 琉日戦争一六〇九 P263

シェアする

フォローする