安慶名グスク
データ
グスク名 | 安慶名グスク |
読み | あげなぐすく |
別名 | 大川グスク |
所在地 | うるま市具志川安慶名 |
現況 | – |
築造年代 | 14世紀頃 |
築造者 | 安慶名按司 |
主な城主 | 安慶名按司 |
種別 | 居城 |
構造物 | 城壁、拝所、按司墓、城門、郭、石碑 |
記録
初回探訪年月日 | 2005/9/23 | |
最終探訪年月日 | 2008/3/24 | |
満足度(A-G) | A | グスクの遺構がほぼ残っています。 |
所在地 | うるま市具志川安慶名 |
分類 | 居城 |
築造年代 | 14世紀頃? |
築造者 | 安慶名按司 |
主な城主 | 安慶名按司 |
別名大川グスク
独立丘陵を利用して築かれたグスク。
内と外の二つの郭からなる、沖縄では珍しい輪郭式のグスクで、高く積み上げられた城壁は一見の価値ありです。
このグスクは伊覇按司の五男である安慶名按司がを築いたとされています。
安慶名按司は息子たちに具志川、天願、喜屋武、屋良などのグスクを周辺に築かせて旧具志川市一帯に勢力を誇ったと思われます。
しかしそれを警戒した首里によって攻められ、グスクに篭城するも水を断たれてグスクは落城し滅ぼされたのだそうです。
概要
安慶名グスクは安慶名集落の北にある標高約49mの独立丘陵に築かれたグスクです。
グスクは丘陵を取り込み形で築いており、岩山の断崖や急斜面を巧みに利用して築かれています。
内と外の二つの郭からなる、沖縄では珍しいタイプのグスクで、高く積み上げられた城壁は一見の価値ありです。
歴史、感想など
このグスクは14世紀頃、安慶名按司によって築かれたと云われています。
グスクを築いたとされる安慶名按司は大川按司、安慶名大川按司とも呼ばれ、伊覇按司の子とされています。[1]「沖縄のグスクめぐり」では五男、「琉球王国の真実」では四男と記載されています。他の資料では何番目の子か記載されていませんでした。
初代安慶名按司は次男を屋良グスク、三男を喜屋武グスク、四男を具志川グスクに配したと言い伝えられ、三代に渡って周辺に勢力を誇ったと云われています。[2]「ぐすく」には三代七十余年と記載しています。
落城伝説
次第に勢力を増して周辺勢力に圧力を加える安慶名按司に対し、首里王府は軍を派遣します。
王府軍はグスクを包囲するも堅牢なため攻めあぐねていました。
やがてグスクには井戸が無く、北の天願川からの給水に頼っている事を知った王府軍は水の手を絶ち、安慶名按司は降伏したのだそうです。
この事は尚真王の中央集権政策に反発した結果とする見方もあります。[3]沖縄戦国時代の謎
感想
間違いなく旧具志川市では随一。本島中部でも屈指の遺構を残すグスクです。
グスクの入り口は南側にあり、北側の闘牛場方面から向かうと非常に分かり難いので注意が必要です。
グスクは内郭と外郭からなりますが、施設などを置けるのは内郭のみで外郭は所謂帯郭的なスペースと思われます。
何にせよ闘牛場から見た外郭城壁、外郭から見た内郭城壁、自然の岩と石積を併用して作った内郭城門などいくつもの見どころがあるグスクです。
ギャラリー
2005/9/23
入り口の石段を登って外郭へ入ります。 | 外郭の風景。 |
内郭にある岩場、グスク最高所へ続いています。 | 内郭の城壁を見たもの、かなり見事なものです。 |
2008/3/24
闘牛場側から見たグスク遠景。 | 闘牛場裏手からグスクを見たもの この時は草木が無く、 直接グスクに登ることが出来る状態でした。 |
外郭東側城壁 | 外郭東側から正面方向を見ます。 |
グスク南側にある城跡碑 奥にグスク入り口が見えます | グスク入り口から外郭へ向かう道 |
外郭正面から東側城壁を見たもの | 外郭の様子 |
外郭西側の様子。 狭い道でこの先は行き止まりです。 | 外郭西側から見た内郭城壁。 |
外郭と内郭を繋ぐ城門 岩と石積みを組み合わせて構築されています。 | 内郭の様子。 外郭と比べると広い印象です。 |
内郭にある拝所の一つ 「安慶名宇仁志大■(大主?)」と 記されています。 グスク内にはこういった拝所がいくつか 存在します。 | 内郭の城壁には方形に空いた箇所があります。 |
内郭北側の様子 | グスク頂上部へ向かう途中にある拝所 |
グスク頂上部。 三角点があります | 内郭城壁上から見ます。 |