瀬長グスク

瀬長グスク

データ

グスク名 瀬長グスク
読み せながぐすく
別名
所在地 豊見城市瀬長
現況 瀬長島サンセットパークなど
築造年代 不詳
築造者 不詳
主な城主 瀬長按司
種別 居城
構造物 拝所、標柱

記録

初回探訪年月日 2006/4/16
最終探訪年月日
満足度(A-G) E 戦後、米軍施設にされた際に地形も削られた模様です。
過去の記述
所在地 豊見城市瀬長
分類 居城
築造年代 不詳
築造者 不詳
主な城主 瀬長按司

瀬長島の西側丘陵にあるグスク。
三山時代には南山の中山に対する出城として利用されたそうです。
戦後島そのものが米軍施設として利用されたため地形が大きく変わり
遺構は残っていないようです。

概要

瀬長グスクは瀬長島の丘陵上にあったとされるグスクです。
丘陵の南側には島の最高所である丘があり、標高約33mとなっています。
戦前は石積み遺構なども残っていたそうです。
しかし戦後、米軍の弾薬貯蔵庫が建造されたため、島の住民や御嶽は対岸に移動したのだそうです。
そのため地形は大きく変わり、グスクの面影は残っていません。
現在グスク周辺は観光地として整備されつつあります。

歴史、感想など

伝承によれば瀬長島は豊見城で最初にアマミキヨが降り立ち村立てがされたと云われてるのだそうです。
アマミキヨの子である南海大神加那志により、島に住み豊見城最初の集落が造られたとも云われています。
これらの伝承からか最初の瀬長按司はアマミキヨの子孫とする伝承もあるようです。
その後察度王の四男が瀬長按司として置かれたと云われているようですが、「琉球王国の真実」では次男としているなど諸説あるようです。
三山時代に入ると承察度の三男が山南系の瀬長按司としてグスクに入ったようです。

落城伝説

尚巴志が山南を滅ぼそうとした際、瀬長島に船団を派遣し島を取り囲んだのだそうです。
当時の瀬長按司は上記した承察度の三男かも知れませんが、汪応祖の弟を瀬長按司とする伝承もあるようで、入れ替わりがあったのかも知れません。
島は長期間包囲され、用水に事欠く有様となりますが、按司は敵の目を欺くため、高台に馬を連れ白米を水に見せかけて浴びせたのだそうですが、努力も虚しく結局水が尽き落城したのだそうです。

山南滅亡後

第一尚氏の頃、当時の瀬長按司は尚金福王の娘婿だったそうです。
「琉球王国の真実」では第一尚氏に寝返った長嶺按司の子孫(最後の長嶺按司の次男)としています。
この瀬長按司の夫人は美人だったため、大城森按司に手を出されるもどうにも出来ず、王に訴えて大城森按司を亡き者にさせたと云われています。(詳細は大城森グスクのページにて)
その後瀬長按司は王亡き後の王位争いである志魯・布里の乱で戦死したとも、その子孫は第一尚氏滅亡後尚円王に背いたため滅ぼされたとも云われているようです。

感想など

島の中央付近を占める高台の南寄りにグスクはあったと云われています。
当時、高台への道は封鎖されていたので標柱付近である高台南端付近からよじ登ったものの、何も無く落胆した覚えがあります。
現在は高台も整備され、訪れやすくなっているようです。

探訪記

グスク標柱脇の道 島の東側。グスク標柱脇から伸びている道。途中に拝所らしきものがあります。
拝所の上に見える巨岩 拝所の上に見える巨岩。道を迂回して登ることも可能です。
岩の上にある拝所 岩の上は拝所があり西側へ向かう道が僅かにあります。
道の途中の拝所 道の途中にある拝所。香炉がブロックで囲われています。これより先は道無き道です。
西に進むと岩山が見えます 西側に進んだところにある岩山。

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