上里グスク
データ
グスク名 | 上里グスク |
読み | うえざとぐすく |
別名 | – |
所在地 | 糸満市束里 |
現況 | – |
築造年代 | 不詳 |
築造者 | 不詳 |
主な城主 | 上里按司? |
種別 | 居城? |
構造物 | 城壁、城門、拝所、拝井、郭 |
記録
初回探訪年月日 | 2005/9/11 | |
最終探訪年月日 | 2009/4/2 | |
満足度(A-G) | B | 全体的に雑木林になっていますが、遺構は良く残っています。 |
過去の記述
所在地 | 糸満市束里 |
分類 | 居城(?) |
築造年代 | 不詳 |
築造者 | 不詳 |
主な城主 | 上里按司(?) |
朝鮮に亡命した温沙道が上里按司では無かったかという説があるようです。
またこのグスクの周囲にはいくつものグスクが集中的に存在していて、出城でないかとも言われています。
またこのグスクの周囲にはいくつものグスクが集中的に存在していて、出城でないかとも言われています。
概要
上里グスクは束里集落の上里区北にある丘陵上、標高約70mの場所に築かれたグスクです。
このグスクを中心に密集地帯となっていて、連携関係にあったとも見られています[1]沖縄の名城を歩く P35。
歴史、感想
上里グスクは上里按司と呼ぶべき城主がおり、南山グスクの承察度に対抗していたと見る向きがあります。
このグスクを中心に山城グスク、佐慶グスク、束辺名グスクなど城塞型と見られるグスクが集中している事や、「李朝実録」に記された「山南王温沙道」という人物が「上里按司」を指しているとする伊波普猷による説があったためです。
現在では温沙道は「上里(うぃーざと)」より「承察度(うふさと)」であるとする見方が強いですが、上里に周辺のグスクを纏めた按司がいた可能性はあると思われます。
またグスク内には水の手が無く、籠城に向かない為村人の逃げ城的なグスクで無かったかとする見方もあります[2]日本城郭大系1 P323。
しかし隣接している山城グスクには井戸跡がある[3]沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について(一)事から、水は確保出来た物と思われます。
そういった事を踏まえ、このグスクは喜屋武地域に割拠していた領主の本拠であった可能性が高いとする見方があり[4]沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について(一)、個人的にもそう思っています。
ギャラリー
2005/9/11
城門付近。 鬱蒼とした森の中にグスクはあります。 | 城壁、石垣は崩れかかっています。 |
西側の郭への入口。 | 西側の郭内。 雑草に覆われて入れません。 |
2009/4/2
城門付近。 グスク方面奥へ向かう道。 | 城門付近の城壁は崩れかかっています。 かなり崩れてしまっている箇所も |
城門付近からグスク北側を見ます。 奥に郭があるのが見えます。 | 城門付近からグスク西側を見ると 雑木林が続いています。 |
グスク北側の郭には拝所があります。 | 西側の郭入り口。 相変わらず中を探索のは厳しい雰囲気でした。 |